顕微鏡が江戸の流行を生む~『雪華図説』~

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雪華圖説+続雪華圖説覆刻版(土井利位)/雪華図説考(小林禎作)
1函3冊 築地書館 1968年

本書の原本である『雪華図説』『続雪華図説』2巻は、天保3年(1832)に正篇が、11年(1840)に続篇が刊行された、雪の結晶の図版集です。

著者は下総国古河藩主、土井利位(どいとしつら)。
蘭学者でもあった家老・鷹見泉石の力を借りて、顕微鏡で観察した結晶のスケッチは正続合わせて183種。加えて西洋の書物から写したものが12種。

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さて、自然が作り出す幾何学的な美しさを描きとった図版もさることながら、この本が生まれた時代背景というのも是非に知っておいていただきたく、ここに採りあげた次第。

そもそも顕微鏡というものが日本に入ってきたのは18世紀後半頃、そこから『雪華図説』の刊行される19世紀前半頃までの期間というのは、いわば蘭学の興隆期。
有名なところでは杉田玄白や前野良沢らが蘭書『ターヘルアナトミア』を翻訳し『解体新書』(1774年)を刊行したのもこの時期にあたります。

同時にまた、この頃に蘭学を経由して入ってきた西洋のさまざまな知識・文物が、蘭方医や学者のみならず、江戸市井の文化人たちを魅了していったという点も面白いところ。

たとえば大阪の商人で当代随一の博物コレクター木村兼葭堂や、江戸のマルチクリエイター兼プロデューサー平賀源内といった規格外の知識人が登場して、玄白らと交わりながら最新の知識を半ば娯楽的な好奇心をもって吸収し、やがて文学者や芸術家まで巻き込んだネットワークを張り巡らせてゆくのもこの時期。
玄白の言に「その頃より世人なんとなくかの国持渡りのものを奇珍とし、総べてその舶来の珍器の類を好み、少しく好事《こうず》と聞えし人は、多くも少くも取り聚《あつ》めて常に愛せざるはなし」(『蘭学事始』)と述べられるのはこうした風潮を指しているのでしょう。

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自然科学に関する最新の知識が、学術的な分野からはみ出して、同時代の文化や流行に反映されていく、という現象はいつの世であれ興味深いところで、そうした例はいくつも挙げられそうですが、ひとまず顕微鏡という珍らかなる装置に焦点を当ててみますと。

顕微鏡が日本に持ち込まれた正確な年代はさだかではありませんが、明和2年(1765)、オランダの風俗・地理・産物・技術などを紹介した『紅毛談《おらんだばなし》』の中に顕微鏡のことが記されており、実物の顕微鏡もまた、この辺りの時期に入ってきたらしく思われます。

天明元年(1781)の『顕微鏡記』が述べるところでは、木村兼葭堂と昵懇の間柄だった商人・服部永錫が、兼葭堂の所有していた品を真似てみずから顕微鏡を作り上げた、とあります。
文書に残っているものとしてはかなり早い例といえる国産の顕微鏡が、一介の好事家の手になるものだったというのは、江戸後期の人々の好奇心とバイタリティーを象徴するようなエピソードではありませんか。

また、天明7年(1787)の森島中良著『紅毛雑話』にはその形状と使用法、顕微鏡で見た昆虫や植物の様子が図版入りで紹介されました。
これがやがて大衆向けの読み物に影響を与えたというのは、文化6年(1809)山東京伝作『松梅竹取談』。
この物語の中では巨大な蚊や蚤の化け物が登場するのですが、その挿絵は『紅毛雑話』を真似て描かれたものと考えられます。

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【左】スワンメルダム著『自然の聖書』(別名「紅毛虫譜」)中の挿絵
【右】森島中良著『紅毛雑話』に描かれた顕微鏡で見た蚊(挿絵:司馬江漢)

sekka6山東京伝作『松梅竹取談』(挿絵:歌川国貞)

上記の他にも、この時代の絵入物語本には顕微鏡、望遠鏡、眼鏡、万華鏡などの登場する話が数多くあり、これらの道具が娯楽的に大衆の興味をかきたてていたことをうかがわせます。
ついには実際に顕微鏡を覗かせるという見世物まで登場したとか。
レンズによる視覚効果は、物見高い江戸庶民の間で、目新しい風俗として享受されていったわけです。

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こうした具合に人々がレンズで戯れていた時代にあって、「雪の結晶」に魅せられたのが下総のお殿様だけだったかといえば、もちろんそんなことはありません。

洋風画家であり蘭学の徒でもあった司馬江漢は、蘭書を参考に『以顕微鏡観雪華図』を描いており、また図版こそ残していないものの、『本草綱目啓蒙』の著者・小野蘭山も顕微鏡で雪の結晶を観察していたという記録があります。
ただ、こうした先行者はあるものの、利位の『雪華図説』が質、量とも抜きん出ていることはたしかなのですが。
sekka7司馬江漢画『以顕微鏡観雪華図』

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もともと『雪華図説』は一般に販売されたものではなく、私家版(自費出版)としてごく限られた範囲で配られたのですが、思いがけぬ経緯で世間の目に触れることになりました。

天保8年(1837)、越後の人・鈴木牧之が著した『北越雪譜』という書物は、雪深い越後の生活や風土、物品、伝承などを綴ったもの。この中に「雪の形」と題した章があり、『雪華図説』から引き写したものとことわりを述べつつ、35種の結晶の図版を載せています。
この本が今でいうところのベストセラーになったことで、雪の結晶=雪華のことは広く知られるようになったのです。

空から降る雪がかくもさまざまに美しい形をしていることを、江戸の多くの人びとが初めて知った、その影響はけっして小さいものではなく、これ以後、着物や調度品に「雪華模様」をあしらった品々が流行したというのは聞くだに小気味の良い話。
この「雪華模様」、利位の官職“大炊頭《おおいのかみ》”に由来して、別名を「大炊《おおい》模様」ともいいます。
sekka8渓斎英泉画『雪華美人図』に描かれた雪華模様

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ところで時代を下って現代。
雪について書かれた名著といえば中谷宇吉郎の『雪』を想起される方もいらっしゃるのではないでしょうか。
その『雪』の中でも『雪華図説』のことは触れられているのですが、その他にも「『雪華図説』の研究」という論考があり、利位の図と現代の顕微鏡写真とを比較して、その正確さを讃えています。またこの論考の後に書かれた「『雪華図説』の研究後日譚」では、利位の研究を助けた古河藩家老・鷹見泉石について述べられてもいます。

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最後に、本記事に関連のありそうな書籍をいくつか。当店に在庫があるものも無いものもとりまぜて挙げておきます。

・『江戸の好奇心』(内山淳一 講談社)は、西洋からの科学的知識が江戸後期の視覚や美術に与えた影響についてわかりやすく紹介した一冊。
・平賀源内を中心として、この時代のさまざまな現象をもう少し広い射程で考えてみたい方には『江戸の想像力』(田中優子 ちくま学芸文庫)をオススメいたします。
・杉田玄白の回想録『蘭学事始』は多くの人が想像しているよりもずっと読みやすい内容で、蘭学揺籃期に志を持って集まった人々の群像劇として楽しめるかと思います。現代語訳と原文を収録した講談社学術文庫版が読みやすいのではないでしょうか。
・中谷宇吉郎の「雪」「『雪華図説』の研究」「『雪華図説』の研究後日譚」はいずれも中谷宇吉郎全集第二巻に収録されています。

(追記)
・着物や道具類に描かれた雪華模様については『雪の文様』(高橋喜平 北海道大学図書刊行会)の中で写真とともに紹介されています。
・木村蒹葭堂と江戸の画家、文人、学者たちのネットワークについて丹念に辿った大著『木村蒹葭堂のサロン』(中村真一郎 新潮社)は、読みごたえのある一冊。

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