泉鏡花『新泉奇談』をめぐる議論の経緯(4・終)

【前回まで】
真作か偽作か……諸々の疑問が残ったまま、さまざまな関係者の筆跡鑑定を根拠にして刊行に漕ぎつけた泉鏡花の未発表小説『新泉奇談』。
当然予想された読者・識者からの異議に対しては、原稿発見から10数年に渡る経緯と、筆跡鑑定の信憑性を記すことで回答に代えてきた村松定孝ら真作説派の面々ですが、じつは彼らは最大の難問を棚上げしていたのでした。

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新泉奇談 泉鏡花 千部限定版 角川書店
昭和30年初版 四六判 P290 函ヤケ、天イタミ、時代シミ 元パラ上部少イタミ、袖折れ跡

※  ※  ※
『新泉奇談』刊行から19年後の昭和49年。
2月25日付の朝日新聞にこんな記事が掲載されています。

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“鏡花の真作?実弟の偽作? ナゾの小説「新泉奇談」”“添え手紙がオトリ”

執筆者はかつて朝日新聞社出版局にいた鈴木敏雄。
記事によれば鈴木は昭和21年、朝日新聞京都支局に顔を出した際、“京都某書店主からの預かりもの”という『新泉奇談』の原稿および原稿と一緒に綴じ込まれていた菊池幽芳宛鏡花書簡を見せられたといいます。

この“京都某書店主”というのが和敬書店の関和雄を指すのか、それとも関に原稿を売った古書店のことなのか、それはこの際重要ではなく。
いずれにせよ鈴木は、発見後まもない段階でこの原稿と書簡を目にしたことになります。

すでにご紹介した通り、『新泉奇談』原稿に添えられていた書簡には「原稿20回分送る」とは書いているものの、文面のどこにも『新泉奇談』という作品名が出てきません。
このことは、鈴木もやはり“たいそう気になった”と述べています。

そこで東京に帰った鈴木はまず、久保田万太郎を訪ねて原稿の写真を見せ、次いで久保田の紹介で寺木定芳の自宅を訪ねました。

本ブログの第1回冒頭を思い出していただきたいのですが、和敬書店の関よりも前に、寺木のもとに原稿の鑑定以来を持ち込んだ人物は“A新聞のK氏”という人物。
“久保田万太郎の紹介”で、生原稿でなく“写真”を持参していた、という寺木の回想と一致することからみて、おそらく鈴木が関わっていたのはこの一件なのでしょう。
もっとも、K氏というのが鈴木本人なのか、あるいは鈴木と同行した誰かなのか、鈴木の代理で訪問した者がいたのか、その辺りは定かではありませんが。

このとき鈴木が受けた久保田、寺木の返答も、ブログ第1回で述べたものと一致しており、大きく取り上げるまでもありません。

それよりも重要なのは、鈴木がこのとき、原稿の受取人であったはずの菊池幽芳本人にも問い合わせをしていた、ということ。

まもなく問い合わせの手紙を出しておいた幽芳氏からのご返事が届いた。おどろくべきことがそこにしるされていた。
―鏡花の原稿を私が没にすることなどありえない上に、題名にも内容にもさっぱり心当たりがない。あるいは当時、兄の偽作偽筆をすることで有名だった斜汀のしわざか。しかし私あての鏡花の手紙は自筆のホンモノのようだし、前借を求めてきた文面にも心当たりはあるが、鏡花の手紙を人手に渡した覚えは全然ない。文中『新小説』うんぬんとあるが、私は同誌に作品を発表したことは一度もないので、その点が不思議にたえない。手紙が鏡花真筆としても「断然、新泉奇談とは無関係で……新泉奇談の囮に私の手紙が使はれて居る事は私としても心外に存じます」と結んであった。

なんと菊池本人が、『新泉奇談』を受け取った覚えがないと証言していた、というのです。
これが『新泉奇談』真作説を大きく揺るがす新事実であることはいうまでもありません。

折りしも、この記事が発表された昭和49年というのは、岩波書店が新資料も加えた改訂版の泉鏡花全集を順次刊行していた真っ最中。
『新泉奇談』もまたこの全集の別巻に収められることがすでに予定されていたという、最悪のタイミング。

角川書店版『新泉奇談』発表から19年も沈黙しつづけておきながら、今さらこんな事実を公開する鈴木にどんな悪意や魂胆があったのか、と穿った見方をするのはしかし、少しばかり早計というもの。

じつは鈴木が菊池本人から得たこの証言は、おそらくかなり早い段階、角川版の刊行よりも前に鑑定人の寺木、久保田、村松ら関係者に知られていたらしいふしがあるのです。

前回のブログでも取り上げた、昭和32年の村松の文章「新泉奇談は鏡花の作ではあるが」(『日本古書通信』第153号)の中に、こんな一節が見られます。

最近、私の処へ往年、菊池幽芳と倶に大毎にをられた岡崎鴻吉氏から、奇談が菊池家から出たといふ点に疑問を持たれる御意見がとゞゐている。岡崎氏は菊池氏の性格として、社宛に送られた原稿を家に持ち帰るやうなことは絶対ないと主張される。毎日新聞の記事でも幽芳は「奇談」入手を否定してゐたらしいし、読売新聞の鈴木敏夫氏も、幽芳否入手説をとられてゐる。

“読売新聞の”鈴木敏雄氏となっているのは当時の勤務先を示しているためでしょう。
それはともかく、原文を通して読んでみるとわかるのですが、ここでの鈴木の意見に対する扱いは、いかにもおざなりなもの。
とはいえ、鈴木の“幽芳否入手説”について言及している以上、その最大の根拠である幽芳の証言について村松が知らなかったとは、ちょっと考えにくい話で。
上記引用部分に続けて「してみると、「奇談」の原稿と前記書簡は別々の経路を経てある地点で合流し関氏が偶々入手したことになるのであらうか。」とあることからも、村松は証言の内容を知っていたのでしょう。

ちなみに、こちらは前々回にご紹介した、『新泉奇談』とその関係者をモデルとして昭和29年に発表された佐藤春夫の小説「舊稿異聞―傳鏡花作『靈泉記』について」の中でも、主人公の青年“浦松”は聞き手である著者に向かって、「菊池が否定していることは寺木や久保田らも知っているはずなのに黙殺している」という旨の憤りを告白しています。

村松をモデルとした小説の人物は憤っていますが、現実には村松自身も黙殺するという選択をとった、ということになるでしょうか。

ただし、ことわっておきたいのですが、真作派偽作派を問わず誰かを悪者にすることはこのブログの本意ではありません。

鑑定に関わった面々がいったいどの時点でこの証言について聞き及んだのかわかりませんし、鍵を握る菊池幽芳自身は翌22年に他界して、すでに追及することもできなかったのかもしれません。
生前の鏡花と交わった立場から、自分達の筆跡鑑定をあくまで信じて、菊池の証言を黙殺し、当初の段階で明言を避けたたその判断を、今さらとやかく言っても始まらないこと。
鏡花の文業を網羅する意気込みで編纂されている全集にケチのつくような結果を招く判断であったにせよ、それは20年以上も隔てた結果論にすぎません。

とにもかくにも公になってしまった幽芳の証言。
全集編纂にも携わっていた真作派は、どのように対処したのでしょうか。

……と、言いたいところですが、じつはこの問題、まもなく対処するまでもなく解消してしまうのです。

ということで『新泉奇談』真贋問題をめぐる経緯も、いよいよ最終局面。
ここでの主役は泉名月という人物です。

本ブログでも何度か名前の出てきた鏡花の弟斜汀、名月はその娘で、つまりは鏡花の姪にあたります。
鏡花没後には未亡人すずの養子となり、自身も小説家・随筆家としていくつかの作品を発表してもいる人。

朝日新聞に例の記事が載った前後の時期、名月は刊行中の泉鏡花全集に提供する未発表資料の整理をしている最中でした。
養母であるすずはすでにこの世を去っていましたが、じつはその遺品の中に、鏡花の手になる手紙の下書きが保管されていたのです。

文字の霊性を信じ、誤字は几帳面に墨で塗りつぶしたとか、座布団に指で字を書いた他の作家を叱り飛ばしたとか、書き順を思い出すために空中に書いた文字さえ手で消すしぐさをしたとか、エピソードに事欠かぬ鏡花ですから、手紙の文反故を長年残しておいたとしても不思議はないのですが、この下書きの束の中に、余所から鏡花に届けられた書簡も混じっていたのが、このとき発見されます。

差出人の中には芥川龍之介や尾崎紅葉など鏡花ゆかりの文学者も含まれており、それらの書簡はもちろん第一級の資料だったのですが。

その中の一通、候文で書かれたその手紙の内容をざっくりと意訳すると以下のようなものが、名月の目に留まります。

お手紙拝見、新泉奇談20回分もたしかに受領いたしました。
こちらこそいつも大変ご無沙汰いたしており恐縮でございます。先日上京した際にもあいにくお目にかかることができず残念に存じます。
さて、原稿料の件ですが、お申し付けくださいました通り、30回分お送りしたいと会計部に申し込みましたところ、今月はちょうど決算月ということもあり、不都合とのことですので、20回分だけでご辛抱いただけますよう。
なお原稿料は1回3円50銭、20回分70円を小切手にてお送りいたしますので、ご査収くださいませ。
とりいそぎ稿料発送、原稿受領のお印まで。 28日 幽芳

鏡花様

いうまでもなくこれは菊池幽芳から鏡花に宛てた書簡。
しかも、これまで問題となっていた鏡花書簡の返事に当たるものです。
ここにはハッキリと「新泉奇談」の名が記されており、手紙の内容も前回ご紹介した鏡花からの書簡の内容と合致します。

鈴木の記事が朝日新聞に掲載されてから僅か2ヵ月後の4月20日に、思いがけず発見された新たな証拠。
逆転サヨナラ、といってもよいこの発見を、村松は6月刊行の鏡花全集第8巻の月報で早速報告しています。

「新泉奇談」の添え手紙は決して囮に使われた如き、まやかし物ではなかた。早速、泉名月さんが本全集編纂代表の里見弴氏にこの手紙の現物の閲覧を乞うたところ、「永年暗雲の天を覆ふが如くだつた疑惑が一掃された」とお悦びになり、これをここに公開するに至った次第である。
“新発見「幽芳書簡」に基づく「新泉奇談」眞筆考”より

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『泉鏡花全集 月報』に掲載された泉鏡花宛菊池幽芳書簡の写真

ついでに申し添えておくならば、鈴木が報告した菊池証言の中で、「文中『新小説』うんぬんとあるが、私は同誌に作品を発表したことは一度もないので、その点が不思議にたえない。」と記されている点についても、明治35年7月号の雑誌『新小説』に菊池の作品が掲載されており、書簡の日付とまったく合致していることを村松は指摘しています。

さて、『新泉奇談』の真贋をめぐる議論、斑猫軒店主が調べたのはここまでです。
菊池の証言の間違いや、その証言を寺木、久保田らが黙殺したこと、そもそも鏡花の原稿が没にされた理由や、鏡花自身がそれを明らかにしなかったことなど、人それぞれの思惑にかかる謎はもとより知る由もありません。

明らかになってしまえばあっけないような結末。
これが複雑に見えたのは、真偽の定かでない手掛りを憶測で繋ぎ合わせ、そこに個々の思惑が絡み合ったからで。
『新泉奇談』真贋をめぐる議論の経緯がそういう性質のものである以上、門外漢のブログ記事としては、資料の記述を羅列するにとどめて、心の問題にまでは深く踏み込まないのが分相応かと思いますので、この辺りで筆を置きます。

全4回、駄文を長々と失礼いたしました。

次回からはもう少し軽い記事をポツポツと書きたいと思います^^;
季節柄、お化けの話なども書いてみたいですね。

※『新泉奇談』議論についてその後の進展をご存知の方はぜひご教示くださいませ。

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